| 論文10 |
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「歴史地理学-日本経済史間の学際的研究史―趨勢と課題―」
『歴史地理学』第54巻第1号(2012年1月),58~67頁。 |
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(この論稿のPDFは, 九州大学学術情報リポジトリ"QIR"の中にあります。) |
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本稿は,第54回歴史地理学会大会シンポジウム「近代の歴史地理:再考」(2011年6月26日開催,於山口大学)における報告のひとつであり,日本経済史の立場から,近代歴史地理学と社会経済史との学際的関係の意義を検討していくことを目的とする。とくに,1960年代後半~80年代前半における梅村又次と黒崎千晴との交友関係に焦点を当て,そこから我々後進の研究者に残されたメッセージを探ってみたいと思っている。具体的には,第1に,労働経済学を専門とし,『長期経済統計』の監修に携わってきた梅村が,なぜ,いかにして研究を日本経済史にシフトさせ,かつ歴史地理学を重要視してきたのかをまとめ,第2に,黒崎の足跡を少し振り返りながら,社会経済史学会で果たしてきた貢献を検討し,第3に,梅村・黒崎がともに携わってきた数量経済史研究会におおける歴史地理学と社会経済史との学際性について考察を行う。
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| 論文9 |
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「日本土地市場史・不動産経営史研究の趨勢と課題―徳川~明治期の都市を中心に―」
九州大学経済学会『経済学研究』第77巻第1号(2010年6月),121~141頁。 |
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(この論稿のPDFは, 九州大学学術情報リポジトリ"QIR"の中にあります。) |
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本稿では,主に徳川~明治期の都市を対象とした土地市場や不動産経営に関する研究を振り返りつつ,今後の課題について言及することを目的としている。ただし,それを客観的に評価するには,農村におけるその実態をも正確に把握し,都市の事例と相対的に比較できる視野を持つことが重要である。そこで,最初に徳川農村の土地市場史・不動産経営史研究を整理し,続いて都市についてそのサーベイを行っている。
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| 論文8 |
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「徳川後期の宿場町における土地市場と不動産経営―取手宿本陣染野家のケーススタディ―」
『歴史地理学』第51巻第4号(通巻246号)(2009年9月),23~46頁。 |
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(この論稿のPDFは, 九州大学学術情報リポジトリ"QIR"の中にあります。) |
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本稿の目的は,下総国取手宿本陣・染野藤左衛門家を事例に,徳川後期の町場における土地賃貸市場と地貸店貸経営について,地代の収入と決済構造の側面から分析することにある。
水戸街道と利根川の交差する取手宿では,17世紀末期から六斎市や河岸場が相次いで成立した。18世紀中頃には銚子からの肥料や水産物の移入が始まり,銚子醤油業とは原料小麦を仕出し,醤油を仕入れる関係にあった。こうした地廻り市場の拡大は,近在・他国の商人に対して多くの商業機会と労働機会を供与してきた。取手宿でも,18世紀後半から借地・借家の需要が高まり,同宿の本陣兼名主の染野家も,不動産経営を開始した。
本稿の第1の発見は,町場の土地収益性についてである。町場の地代は,18世紀後半まで,土地利用者の収入に比すれば微々たる金額に過ぎなかった。この点が,周辺農民を町場に引きつけ,土地需要を誘発させる要因のひとつとなったと解釈される。ところが,町場の土地供給量には限界があるため,生産性の低い商売渡世は淘汰され,生産性の高い商売渡世が町場に進出してくる。ゆえに,土地収益力は上昇し,それに伴って地代も引き上がったわけである。とりわけ19世紀に入ると,取手宿の地代は,物価や賃金と比較して相対的に上昇する傾向にあったと推定される。このことから,町場における生産活動は,その要素として土地への配分を重視するようになったと判断される。
第2の発見は,決済構造の柔軟性についてである。染野家は,1800年と1828年に大規模な地代改定を実施したが,これは単に賃上げだけを目的としたものではなく,決済構造の整理を伴っていた。1800年の地代改定では,盆暮れの節季払いという決済構造を定着させた。染野家は,しばしば地借と商品取引を行い,買掛金を計上していた。これらの商品は節季に決済されていたので,地代金との相殺が可能だった。1828年の地代改定では,決済を節季払いから月払いに変更した。物価上昇期になると,借主は当座の資金を少しでも留保しておくために,地代を分納したほうが望ましく,貸主の染野家もそのほうが地代滞納のリスクを回避できたからである。このように,染野家の賃貸経営では,取手周辺の景気動向や貸主・借主双方の生計事情に応じて,地代の決済方法を柔軟かつ大胆に転換させることが可能だったのである。それとは対照的に,江戸の町屋敷経営では,地主が積極的にその経営手腕を発揮する機会を持ち合わせていなかった。
以上より,徳川後期の土地市場と不動産経営は,江戸とその近郊の町場との間で,実に対照的な動きを示していたのではないかと結論づけられる。
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*本稿は,平成16~18年度科学研究費補助金(特別研究員奨励費:課題番号16・9590)の助成を受けたものである。
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| 論文7 |
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「三菱における東京の土地投資と不動産経営:1870~1905年」
『三菱史料館論集』第10号(2009年3月),25~70頁。 |
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(この論稿のPDFは,一橋大学機関リポジトリ"HERMES-IR"の中にあります。) |
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本稿の目的は,明治期三菱における東京の土地投資と不動産経営の収支を明らかにする点にある。
海運業分離前の三菱(1870~85年)は,西南戦争の御用船運航収入による多大な利益を受け,岩崎家の資産運用の一手として東京の不動産投資を積極的に展開した。地所家屋が家産として位置づけられた以上,内方がその管理を担い,一方で岩崎家の私邸として使用するとともに,他方で貸地貸家経営を手掛けるようになった。その収益自体は微細なものに過ぎなかったが,続く三菱社時代の不動産経営に連続するものとして評価される。
三菱社時代(1885~93年)における不動産投資の特色は,短期間に,特定の町の地所を,集中的に買い集めた点にあった。ただ,1889年ごろを境目として,その方針は相違する。その前半(1885~89年)の不動産投資は,創業期から継承した深川・京橋越前堀の土地を拡張し,海運業・倉庫業との関係を維持した。しかし,企業勃興期のインフレーションに伴う地価や人件費の高騰,硬直的な収入に加えて,家屋税導入による増税,コレラの発生に伴う衛生対策の必要性は,従来の木造貸長屋経営に多くの課題を突きつけた。
これに対して,後半(1889~93年)の投資は,広大な官有地の払下げを受けた市街地開発を特徴とした。芝愛宕町では,今日の慈恵医大と同付属病院への貸地経営に特化し,高収益率を記録したが,三菱の不動産経営には,なおも安全で快適な居住空間の創造が求められた。神田三崎町の不動産経営は,愛宕町での貸地経営を継承しつつ,煉瓦積みの木造家屋というハイブリッドな建築様式を試行し,これに火災保険をかけた点で,丸の内開発のパイロット・プロジェクトだったと位置づけられる。正当な利益獲得とともに,自らの手で生活関連社会資本を構築すること,これが三菱の都市不動産投資に対する意義だったと主張される。
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| 論文6 |
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「徳川前期の町屋敷経営と不動産投資―江戸小舟町・神戸家のケーススタディ―」
『三田学会雑誌』第101巻第2号(2008年7月),65~90頁。 |
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(この論稿のPDFは,一橋大学機関リポジトリ"HERMES-IR"の中にあります。) |
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本稿では,犬山屋神戸家が徳川前期の江戸に所有した地面を事例として,町屋敷経営の収支構造を解明し,商人資本による不動産投資の意義を検討した。その結果,当該期の町屋敷経営は黒字基調にあったものの,地面に対する資産評価は,その土地収益性に比して過大に下されてきたため,資産利子率は低率かつ低減の方向性を示した。このことから,商人は,町屋敷という都市不動産に対して資本利得を期待していたことが明らかとなる。
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*本稿は,平成16~18年度科学研究費補助金(特別研究員奨励費:課題番号16・9590),および一橋大学21世紀COEプログラム「社会科学の統計分析拠点構築」の成果の一部である。
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| 論文5 |
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「江戸の土地市場と不動産投資:収益還元法による地代・地価分析」
『社会経済史学』第73巻第2号(2007年7月),25~40頁。 |
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(この論稿のPDFは, 九州大学学術情報リポジトリ"QIR"の中にあります。) |
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江戸の町屋敷を事例に,実質地価の決定構造とその推移を分析し,その長期金融資産としての安定性を再検討した試論。従来,徳川都市の土地市場研究は,土地の収益性と資産性を切り離して議論したため,その鑑定評価を明示できなかったが,本稿は両者の関係を重視して沽券地の実質地価を求め,その変動要因をマクロ経済に位置づけた点に,最大の特徴を有する。
本稿で新たに発見した事実は,以下の2点である。まず,18世紀の土地市場では,実質地代が低下したにも関わらず,実質地価の上昇が展開された。これは,低金利政策と貨幣供給の増量,商品取引に対する貨幣需要の減退といった経済環境が土地不動産への資産選択を活発化させたからである。対照的に,19世紀の土地市場では,利子率が一層低下していたにも関わらず,実質地価は暴落した。この要因は,貸手の商人・地主が,土地収益性を,表店でなく裏店のそれ程度と過小に評価したことに拠る。
以上の観察結果は,徳川都市の土地不動産がリスクと鉢合わせの投機的な長期金融資産たりえたことを示唆するものである。
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*本稿は,平成16~18年度科学研究費補助金(特別研究員奨励費:課題番号16・9590)の成果の一部である。
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| 論文4 |
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「明治初期の横浜居留地市場と内外商間取引」
『三田学会雑誌』第99巻第4号(2007年3月),239~264頁。 |
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(この論稿のPDFは,一橋大学機関リポジトリ"HERMES-IR"の中にあります。) |
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本稿の目的は,生糸輸出市場と繊維品輸入市場を,内外商間取引の結合性と双方向性という視点から検討する点にある。幕末・明治初期の生糸輸出市場では,低価格糸を中心に内外商間で安定的な取引関係が見られていた。他方で内商は,そのような外商から輸入繊維品を購入し,国内の商人へ信用性の高い外商を斡旋する役割を果たした。このような内外商間取引の結合性と双方向性は,両者間に相互信頼が構築されていたことを示唆するといえる。
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| 論文3 |
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「幕末期における商人移動の人口地理学的分析
―横浜開港に伴う豆州下田欠乏品売込人の転入経緯と世帯構成の変遷―」
『歴史地理学』第44巻第2号(通巻208号)(2002年3月),5~24頁。 |
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(この論稿のPDFは,一橋大学機関リポジトリ"HERMES-IR"の中にあります。) |
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本稿は,横浜開港場に移住した商人の転入経緯を再検討する試みとして下田商人を採り上げ,下田側の日記や諸史料,横浜側の人別帳や人名録を使用して彼らの移住経緯を追跡調査し,商家における従業員の雇用の出身地別相違が維新期までの居留地貿易に及ぼした影響を検討することを目的とする。下田商人は開国後,欠乏品売込人に任命されて外国人に薪水・食料・塗物などを販売する役割を担ったが,開港によって横浜へ移住して貿易活動を行い,重税と津浪で疲弊した下田の復興に尽力した。しかし対外需要が塗物でなく生糸・茶にあるとわかると,一方ではその産地出身の従業員を雇用して維新期まで貿易商人の中枢に進出し,他方では塗物輸出に固執して下田出身の奉公人を採用した結果,撤退を余儀なくされた。つまり,幕末から明治初期にかけて横浜商人の中枢に位置するために,流通面に限らず労働力の面でも生糸や綿製品の産地と密接な関係を築く重要性が明らかになった。
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| 論文2 |
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「近世末期絹織物業中心地の人口移動分析
―武州多摩郡八王子横山宿におけるケーススタディ―」
『社会経済史学』第66巻第6号(2001年3月),25~45頁。 |
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(この論稿のPDFは,一橋大学機関リポジトリ"HERMES-IR"の中にあります。) |
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本稿の目的は,武州多摩郡八王子横山宿の人別送状と宗門人別書上帳を利用して,近世末期関東地方における農村工業化中心地の人口移動分析を通じて町場における人口の転出入の特徴を明らかにし,同時に絹織物業産地の中心立地と人口集積の関係を検討することにある。絹織物産地中心地の人口趨勢は,農村工業の発展と並行して停滞期・成長期・安定期に3区分される。成長期には近距離周辺農村の土地持世帯を吸収し,上州・武州の絹織物産地から機業関係者を転入させたが,安定期になると転入に関してはその目的の距離への依存度が低下し,転出については江戸から相対的自立化を図り,旅籠屋の従事者が他の宿駅に移動する傾向が発生した。つまり,八王子では農村工業化によって宿場町から市場町へ空間システムの代替が達成された。そして,開港以前に町場の成長が見られた産地は,在郷町を中心に周辺農村を組織した絹織物産地でのみ可能だったことが明らかになった。
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| 論文1 |
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「天保期八王子横山宿の人口移動」
『三田学会雑誌』第92巻第3号(1999年10月) ,137~170頁。 |
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(この論稿のPDFは,一橋大学機関リポジトリ"HERMES-IR"の中にあります。) |
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本稿は,宗門人別書上帳と人別送状の照合という作業を通して武州多摩郡の町場・八王子横山宿における天保期の人口動態を考察し,地理学的側面から当時の移動人口が所有持高や職業構成など町民の階層面に与えた影響を検討することを目的とする。八王子では世帯をあげての引越転入が高い割合を示しており,自由な労働市場の存在が高い人口流動性を支えていた。彼等の出身地は関東一円に分布したが,相対的に甲州道中を横軸とした東西間の移動よりも脇往還を縦軸とした南北間の移動のほうが活発であり,八王子が北関東と南関東を人口面で繋いでいた。他方で,同宿では天保期以前から居住する土地持世帯が絹織物業,米穀業などで仲間を形成して新規参入を規制していたことから,八王子は他方で雑業化した無高の転入者が江戸を最終目的地とする中継的役割を果たしたことが明らかになった。
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